院長の教育方針1

無関心VS過干渉

「愛」の反対語は「無関心」だとマザーテレサは言っています。
だからと言って、過干渉と愛とは違うと思います。

部下や子供を持ったら、愛が必要になってきます。
「無関心」が良くないからと言って過干渉になってくれば、部下や子供は反発してくるでしょう。
野球のコーチが、選手を指導しすぎることによって選手が壊される例は後を絶ちません。
子供にしても干渉しすぎて子供がぐれたり、親子関係がぎくしゃくしたり、依存心が強くて1人前になれない大人になってしまうでしょう。

愛、無関心、過干渉……世の中すべてに言えることですが、すべてはバランスの問題だと思います。
私自身、社員も小さい子供もいますので、教育に関しては考えることが多々あります。
教育で大切なことは「愛」だということは間違いないでしょう。
根底に「愛」があれば、何をするかの方法論は、多少の間違いがあってもいいと思っています。

「教育」とは何かと聞かれば、社員や子供が未来を強く生きていける人間にする手伝いをしていくことではないかと思います。
彼らが、自立するために、干渉する必要があるときは干渉し、見守っていた方がいいと思った時には、見守っていればいいと思います。

無関心と見守るとはやっていることは同じように見えても思いが違います。
ある意味、手を差し伸べる方が断然簡単なのです。
よく言われる例で、困っている人にお金や食べ物を与えることは簡単です。
しかし、本当の愛は、食べ物を与えることよりも、今後食べ物を獲得できる方法を身につけさせることだと言われています。

与えられることに慣れてしまえば、与えられない状況に不平不満を言い、自分の頭で考えない人間になってしまいます。
ティーチィングよりもコーチィングが大切というのは、教えることよりも気づかせることの方が何倍も大切なのです。

私自身、子供時代に親からもっとかまってもらえていたら、もう少しは優秀になれたのではないかと思った時期もありましたが、今では私の判断で自由に生きさせてくれたことで、自分の頭で考えれるようになったことをとてもありがたく思っています。

社員や子供から、無関心や野放しにされていると感じられれば干渉する割合の修正が必要かもしれませんが、彼女らが、愛されている、見守られているという信頼関係があるのであれば、彼女らの潜在能力を信じていく方法の方がいい結果に結びつくと思います。

価値観の押しつけ

人間は長く生きていくほど自分の価値観というものが出来てくるように感じます。
価値観というのは、簡単にいえば「自分が正しい」と信じていることだと思います。
自分が正しいと思うことが否定されたり、自分にとって正しくないことを平気でしている人を認めたくないという感情は誰にでもあるように思います。

人は全員、各人それぞれの価値観がなければ生きていけないのではないでしょうか?
私自身のことを振り返ってみて、私にも自分にとって「これが正しいこと」というものがあります。
それを社員や子供に伝えていきたいという気持ちがあります。

それは今日のテーマの「価値観の押しつけ」の様な気もします。
大げさにいえば、自分が50年近く生きてきて、大げさに言えば「これは後世に伝えていきたい」と思うことは、社員や子供たちに押しつけながらも伝えようとしています。

このブログもある意味「私の価値観の押しつけ」なのかもしれないなと感じます。
私の中で社員や子供に価値観を押し付けることには、あまり後ろめたい気持ちは感じません。
特に自分の子供に対して、自分の価値観を洗脳していくことは、自分の生きている義務であるとすら感じています。

しかし、自分の妻や他人に自分の価値観を押し付けることは、どちらかというと悪のように感じる自分がいます。
自分の子供や社員に対してする「価値観の押しつけ」は正で、妻や他人に行う「価値観の押しつけ」は悪に感じる違いは何なんだろう?と考えてしまいました。

私の中では自分が正しいと信じていることを、子供や社員に伝えていくことは彼女らにとっての幸せにつながっていく、と信じているから押し付けに感じられる可能性があってもあえて行っているように感じます。

一方、ある程度、自分の価値観をもっている妻や他人に対して「価値観の押しつけ」は、逆に相手を不幸にしてしまう可能性があるということで自分の価値観を押し付けないように心掛けているような気がします。

ただ、面と向かって、相手に言動で「価値観の押しつけ」をしていないつもりでも、心の中では、「これが正しいのに」という気持ちがあるということは無意識に価値観の押しつけをしていることになるのではないか?!と反省している自分がいます。

「価値観の押しつけ」の反対は「相手を尊重する」ということだと思います。
どんな相手に対しても、人間関係において一番大切なことは「相手を尊重する」ことだと思います。
子供や社員に対して、私の「価値観の押しつけ」が正しいか正しくないかの分かれ目は「相手を尊重」しながら行っているかどうかで違ってくるような気がします。

人間にとって、自分の価値観を高めていくことが生きていく意味、成長の基準であるように感じていますが、そのために大切なのが「使命感、責任感、正義感」であると思っています。

自分にとっての「使命感、責任感、正義感」とは何なのか?を日々考えながら生きていかなくてはいけないと思います。
とても難しいことではありますが、「価値観の押しつけ」と「相手を尊重する」はセットで行ってこそ初めて価値が出てくるのではないかと考えています。

他人は変えられない

私の中では、「他人を変える事は出来ない」という確信があります。
他人が変わる事があるとすれば、自分自身で何かに気付いた時に変わる事があるので、誰かが、本人が気づくきっかけを作ることはできても、相手が変わるかどうかは100%本人次第なのです。

私は社員にミーティングをしていますが、社員を変えようと思って話をしていません。
私のコメントで、何かを感じて気付く社員が1人でもいればいいな、と思いながらしゃべっています。
たとえその時には何も気付かなくても、何年かして気付いてくれてもいいというスタンスでお話しています。
私の話で、社員が何かに気づくかどうかは、わたしにはコントロールできません。

ましてや私の話で、社員を変えようなんて考えれば、思うような結果が出ないで、自分がショックを受けて社員に八つ当たりしてしまうのが落ちです。
「他人は変えられない」から諦めて何も言わないのではなく「変わらない」からこそ、本人が自分自身で気づくような内容の話に工夫をしていかなければいけないのです。

自分が説得すれば「相手は変わる」というスタンスで話をするから、話の内容も自分の価値観の押し付けになるのです。
その典型が家族関係なのです。
相手を変えようとする人が多いからから「結婚は人生の墓場」「結婚生活は人生の修行」と言われてしまうのです。

子供を自分の思うように成長させようと思うから、親子関係がうまくいかなくなってくるのです。
夫婦でも親子でも、説得して相手を変えるのではなく、自分の後ろ姿や自分の生き方で相手が自分で気づくのを待つしかないのです。
なぜこんな簡単な事に気付かないんだとか、なぜそんな事をするんだと、身近な人ほど、イライラするものですが、相手に気付いてほしければ、それなりの工夫をするしかないのです。

「他人は変わらない」から何も手を打たないか、「他人は変わらない」が、その人を変える手助けをする為に、気付くヒントを与え続けるかは、その人を本気で愛しているかどうかによって違ってくるのです。
私の医院の社員のレベルが高いのは、私のつたない話からでも何かに気付いてくれる社員が集まっているからだと思っています。
私も自分の子供のように、社員を愛しているからこそ、ダメもとで今後も自分の考えを発信続けると思います。

他人は自分の鏡

医院の経営者のトップとして、社員の働き方はどうしても気になってしまう。
「よく働いてくれているなー」と感じるときもあれば「手抜きが目立つな」と感じるときもあります。
社員自身の体調の違いや、気分が乗る時と乗らない時があることもあるでしょうが、一番の違いは、私自身の心の持ち方に違いがあるのだと思っています。

自分が頑張っている時には、他の人も頑張ってくれていると思えますし、自分が手抜きをしている時は、社員も手抜きをしているように感じるものなのです。
他人は自分の鏡なのです。
自分の考え方、在り方が他人を通して自分に戻ってくるのです。

自分が頑張っている時に、例え社員が手抜きをしていても、彼ら彼女らにも何か事情があるのだろうから、今は自分が頑張ろう、といい方にも解釈できますが、自分が頑張っていない時には、社員まで手抜きをしたら組織として成り立たないと思えて不安になってしまうので、社員の言動にイライラしてくるのです。

相手を信じれば相手も信頼してもらおうと頑張れますが、相手を疑えば相手のやる気もそがれてしまいます。
相手を信じられるか、信じられないかは、自分の状態に影響されやすいのです。
他人を変えようとしてもなかなか変わりません。
自分を変えていくことが、相手が自分自身で気づく一番の近道なのです。

もちろん、トップとして言うべきことは言えなければいけませんが、思うように物事が運ばない時、常にイライラするのではなく、時には自分の考え方や受け取り方にも問題があるのではないかと、自分が変わることに意識を向けることで物事がいい方に展開することも少なくないのです。

他人の言動を変えようとしても無理な場合が多いですが、自分を変えていけば、例え相手が変わらなくても、自分の成長は約束されるわけですから、自分も成長した上で相手も変わってくれれば一石二鳥で大儲けなのではないでしょうか。
「他人は自分の鏡」と思うことで少しは気持ちが落ち着くものです。

人は立場が違えば見方も違う

人間関係に悩む根本の原因は、人はそれぞれ考え方が違うことです。
同じ親から生れて、同じ環境で育っても、長兄と次兄では物事の受け取り方は違いますし、接する人の影響もあったりして、兄弟でも同じ考え方にはならないものなのです。

仕事でも、雇う側と雇われる側では当然感じ方は違いますし、恋人の振る側と振られる側の論理も違います(笑)
多くの人から見ると非常識なことでも、言っている本人は本気で自分が正しいと思っているのです。
人を雇う側は、例えどんなに人間的にはいい人でも、会社にプラスにならない人は、心を鬼にしてでも辞めてもらわざるを得ないこともありますが、雇われている側は、当然、経営者を冷たい人間だと思うことでしょう。

上司も、細かい注意までしたくなくても、細かい注意をしなかった為に、大きなミスにつながることは困るので、そう思って細かいことまで注意していても、部下側からすると、そんな細かいことまで言われなくても分かっているよ、と感じるのです。

親も子供に良かれと思って助言していても、子供はただのお説教としか受け取らないのです。
1つ、1つの出来事に対して、人の受け止め方、考え方にはいろんな考え方があるのです。
“泥棒にも3分の理”と言いますが、悪いことをする人間にも、それなりの言い分があるものなのです。

どの考え方が正しくて、どの考え方が間違っていると議論しても、立場や育った環境が違えば、両者が納得する結論が出ないことの方が多いものなのです。
その人のおかれている状況が変化すれば、その人の考え方も変わってくるかもしれませんが、議論する時点で立場が違えば、考え方も違ってくるので、言い競うだけ無意味なのです。

部下も自分が上司になれば、相手のことが分かってきますが、一生部下を持たなければ、一生上司の気持ちは分からないかもしれません。
従って、考え方に、正しい、間違っていると判断することはできない場合も多いのです。

-院長の教育方針
-, ,

© 2024 南青山デンタルクリニック(東京)

無料矯正相談Web予約 ホワイトニングWeb予約 画像でのメール相談 オンラインでの矯正相談 メールでのお問い合わせ